「遅いじゃないか! 君、何年仕事やってきてるの。
もっと早く書類だせないの!」
今年の春にピチピチの若いギャルが入って以来、
わたしは十歳年下の上司にイヤミを言われてばかりだ。
確かに、若い子がキーボードを打つ速さにはかなわない。
悔しいが、こっちには老眼というハンデまであるのだ。
確認に時間がかかって、しょうがない。
夕方、仕事を終えてから、スーパーで買い物をした。
肩に、雑誌の付録についていた安物の通勤カバンをかけ、両手に、家族の食料品がパンパンに詰まったエコバッグをさげる。
今日は息子に頼まれて、1リットル入りの甘いピーチジュースを買ったから、やけに重い。
疲労困憊の体にのしかかる10キロ以上にはなるだろう荷物の辛さよ。
息子は若いから甘いジュース飲んでも、全然太らない。わたしも、若いころは息子と同じだった。
今は、息子がジュースをおいしそうに飲むのを、指をくわえて見ているしかない。
これ以上太りたくないもん。
若いころ好きだったハイヒールも、体に負担がかかるようになって、やめちゃった。
だけど、若い子みたいにスニーカーで歩くつもりはないの。
低くてもヒールのある靴を履くのが、唯一残ったプライドだから。
スーパーから30歩ほど進むと、横断歩道がある。
青信号が見えると走るのだが、いつも間に合わない。
悔しくて、足を踏み鳴らした。
ああ、靴のかかとがすり減る。
もったいない!
隣りに、わたしと同じようにたくさんの品物を詰め込んだエコバッグをさげた女の人が立っている。
彼女をしょっちゅう、この横断歩道で見かけるようになった。
彼女に視線を向けると、向こうもわたしのことをよく見て覚えていたのか、会釈してきた。
つられて、わたしも頭を下げた。
信号が青になり、渡った。彼女はわたしを追い越そうとする。わたしは負けたくなくて、早歩きをした。彼女も歩みを早め、わたしを追い抜こうとする。
歩幅を大きくすると、足ががくがくしてくる。
若いころの軽い足を、どこで落としてきたのかしら。
電信柱と自分の足を見比べ、そっくりだと思ってため息をもらした。
彼女に追い抜かれたとき、笑顔で頭を下げられた。
わたしは息が上がって、苦笑いを返すのがやっとよ。
ああ、情けない。
それからも、たびたび、彼女を見かけた。
ある日、スーパーの野菜売り場にいたとき、わたしはタッチの差で、特売のキャベツの最後の一つを、彼女に取られた。
彼女は申し訳なさそうに深く頭を下げた。
キャベツなんて、重くて持って帰りたくもなかったのよ、買えなくてよかった。
店を出たら、彼女が少し先を歩いていた。
重そうなエコバッグのためか歩みが遅く、わたしは涼しい顔で彼女追い越して、笑いかけた。
彼女は苦しそうな顔をしながら、何とか笑った。
その翌日は、彼女と横断歩道で並んだ。
急に雨が降りだしたけれど、傘は持っていない。
信号が青になり、小走りで横断歩道を渡った先にある公園に駆け込んだ。
彼女も公園に入ってきて、二人とも大きなタイザンボクの木の下に走った。
「すぐやみますよね。通り雨みたいだから」
彼女が話しかけてきた。
わたしも彼女も、買物した荷物を地面に置いていた。
「そうですね。ああ、早く帰らないといけないのに。
でも、このすごい雨にぬれるのも、イヤだし」
わたしそっくりの重いエコバックを下げた彼女が、うっとうしかった。
それなのに、なぜか彼女の話しかけに、こたえてしまう。
おまけに、大きなため息をもらしてしまった。
彼女はわたしよりもずっと大きなため息をもらす。
わたしは、ほっとした。
疲れたおばさんは、わたしだけじゃなかった。
彼女は、ショルダーバッグから扇子を出した。
バサバサと音がするくらい大きく振って、わたしにも風を当ててくれる。
「汗、ひどいのよ。でも人目が気になるから、こんなに強くあおぐの初めて」
「気持ちいい、ありがとう。
なんかさ、このごろ、この雨みたいに気持ちが沈んでいたの。
スカッとすることなんか、何もないし。
上司に仕事の能力が劣るって言われたけどさ。
あいつだって、もたもたして、判子一つ、さっさと押せないんだよね。
判子を押す指、震えてるんだからさ。
酒の飲み過ぎなんだよ」
わたしは職場の不満を言える人が、まわりに誰もいなかった。
「わたしも同じよ。
若い子の前で、もうちょっとお洒落したらどうだ、とか言われるんだけどさ。
うちの上司なんて、夏は靴下脱いで、ゴミ箱に干すんだよ。
おばさんにはこれっぽっちも気を遣わなくていいと思ってるみたい。
人のことより自分をどうにかしてよって、思うわよ」
わたしたちは二人で大笑いした。
「こんなに笑ったの、久しぶり。
笑うひまがないくらい時間に追われてた。
ひとりでアクセクしてバカみたいよね」
「仲間がいて、心強いわ。
わたしたち、か弱いおばさん同盟よね」
「そうそう。もうやってられないわよ」
彼女はそう言うなり、タイザンボクの木陰から出て、ローヒールの靴を片方脱いで上へ投げた。
わたしも靴を片方脱ぐと、空に届くくらいの勢いをつけて、高く投げた。二人とも狙ったつもりもないのに、靴はタイザンボクの近くにあるベンチに落ちた。
「わ、すごい、宝くじに当たったみたい。何だか、スカッとした」
「わたしもよ」
雨は間もなく上がった。公園の向こうの住宅街に、虹が鮮やかにかかっていた。
作 ねむ沙樹 編集とイラスト ばさまむーちょ
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