工業用ロット箱を作る仕事を始めて三年め。仕事に慣れてきたところなのに、試作品の箱を落として割ってしまうミスをやらかしてしまった。
休日になっても気持ちが晴れない。閉じこもっているとますます気分が落ち込みそうだから、出かけることにした。
小学校四年生まで暮らした町を、久々に訪ねてみることにした。
わたしが住んでいた家の近くに広がっていた畑で、ゲンさんと呼ばれる白髪の老人が、白菜の世話をしていた。ゲンさんは時々、たくさん採れたからと、わたしの家に大きな白菜を分けてくれた。
畑の農道に、大きなクスノキが生えていたなと思い出しながら行ってみると、畑があった場所は原っぱになっている。
でも、クスノキはあの時のままあった。
クスノキがささやく。お前は大きくなったな、と。
小学校四年生の、もうすぐ夏休みに入る暑い日も、こうしてクスノキを見上げた。
つまらないことで友達と言い合いになり、その子から、もう遊ばないと言われ、泣きながら帰っていた。
白菜畑に差しかかったとき、クスノキの下に立っているゲンさんに手招きされた。
アブラゼミが、耳の奥の奥までしみ入るように、鳴いていた。
「この木に登ろう」
ゲンさんは木を見上げながら言った。わたしも見上げた。葉がこんもりと生い茂っていた。
葉に風が当たり、さわさわと小気味の良い音がした。
わたしは、むりだよと強く言った。
「大丈夫、手伝ってやる」
ゲンさんはわたしを先にのぼらせた。
木のてっぺんにほど近い太い枝に、二人並んで座った。
わたしの顔をかすめるように、スズメが飛んでいった。
いつもは見上げていた小高い山が遙か下に見え、山の向こうの海の気配が、かすかに感じられた。
「目をつぶって5つ数えて目を開けてごらん」
ゲンさんに言われ、わたしは目を閉じて1から5まで大きな声で数えてから、目を開けた。
巨大なヒラメが、真っ青な天空で円を描いて泳ぎまわっている。
だんだん速度が増して、入道雲にぶつかり、落ちてきた。
ヒラメはもがいていたが、やがて体勢を立て直して、山の向こうの海にむかって、泳いでいった。
わたしは見えたことをそのまま、ゲンさんに話した。
「そうか、すごいものを見たな。世界は広い。
これからも、広い世界でいろんなものを見ることができるぞ」
そうだ、世界は広いんだ、とあの時思った。
友達とはその後どうなったのか、もう覚えていないが、あれからわたしはメソメソしなくなった。
いろんな経験をして、大きくなった。
もう一度、このクスノキにのぼろう。
わたしはゲンさんと並んで座ったと思われる太い枝を見つけて、腰を下ろした。
目を閉じ1から順に5まで数えて、目を開けた。
思い出した。ゲンさんの昔話を。
ヒラメの絵で絵画コンクールに優勝し、画家を目指していたが、眼の病気になって、絵の道をあきらめたこと。でも、家業の農家を継いでから、おだやかで幸せな人生を送ったこと。
「人生は落ち込んでいる暇なんかないくらいに短いよ」
昔話の最後にゲンさんが言った言葉が、よみがえった。
作 ねむ沙樹 編集とイラスト ばさまむーちょ
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